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南北朝・菊池一族歴史街道について

最終更新日:


南北朝・菊池一族歴史街道プロジェクト

  • チラシ


「南北朝・菊池一族歴史街道プロジェクト」とは

 南北朝時代の英雄・菊池武光公の生誕700周年の節目となった2019年、武光とゆかりのある6つの自治体(うきは市、菊池市、八女市、久留米市、小郡市、大刀洗町)で、「南北朝・菊池一族歴史街道推進連絡協議会」を発足させました。

 共通の歴史文化資源を持つ自治体が連携し、各地域資源を活用した観光プロモーションを行うことにより、文化振興と観光振興を図り、広域による地域経済の活性化を目指すプロジェクトです。

(サイト)https://www.city.kikuchi.lg.jp/ichizoku/別ウィンドウで開きます(外部リンク)


加盟自治体のゆかりの史跡や歴史文化を下記にご紹介します↓↓↓

うきは市

【正平塔】

  • うきは市

 うきは市吉井町千年の小江の集落の中、 北新川沿いの田畑の中にひっそりとたたずむ石塔があります。市指定史跡の正平塔です。 この塔が建てられたのは正平18年 (1363)。 中世の南北朝時代のことです。南北朝時代までさかのぼる石塔は福岡県下でみてもとても古く貴重な物です。当時、日本各地で南朝方と北朝方それぞれに分かれた地方豪族達の争乱が頻発していましたが、正平14年 (1359)、大規模な戦が勃発します。 関ヶ原合戦、川中島合戦と並んで日本三大合戦とも呼ばれる大原合戦 (筑後川合戦) です。筑後川を挟んで両軍10万ともいわれる大軍が戦いました。この戦いは結果として南朝方の勝利に終わり、以降九州は13年間、南朝勢力の支配下となります。

 正平塔には次のような銘文が刻まれています。「願以此功徳、普及於一切、我等與衆生、皆共成佛道 (願わくば此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等も衆生とともに、皆共に沸道に成ぜん) 正平十八年七月十八日 調衆各敬白 (調衆各々敬って白す) 」。 銘文の最後に建立者として刻まれている 「調衆」とは、星野氏と、同族の黒木氏、川崎氏の3氏を総称するものです。星野氏をはじめ彼らもまた、南北朝の動乱の中で多くの一族郎党が犠牲となりました。この銘文は法華経の一節で、数多の戦の中で散っていった南北両軍の全ての犠牲者の供養を願っていることが読み取れます。

 正平塔には、長年の戦乱を経験した星野氏ら調衆の、平和への願いが込められていたのかもしれません。石には太古の昔から不思議な力が宿っていると信じられてきました。静かな田畑の中で忘れ去られたようにたたずむ正平塔は、今日も静かに祈りを捧げ続けています。


菊池市

【菊池神社】

  • 菊池市

 15代武光の存命中に家督を譲られた16代武政は、菊池本城を隈府へと移しました。(守山城)この地は現在に至るまで菊池の中心地として栄え、明治時代には天皇の命により菊池一族の遺徳を称えて本城跡に菊池神社が建立されました。

【将軍木と松囃子能場】

 武光は後醍醐天皇の皇子・懐良親王を迎えると、九州における南朝方の政府「征西府」が菊池に置かれました。親王のために披露したとされる「菊池の松囃子」(御松囃子御能)は国重要無形民俗文化財に指定され、現在も守り継がれています。懐良親王お手植えと伝わる将軍木(県指定)を親王に見立て、毎年10月13日に専用の能場である菊池松囃子能場(県指定)にて奉納されます。

【正観寺と菊池五山】

 武光は領主が寺院の格付けを行う「五山制度」を室町幕府に先んじて取り入れました。東福寺、西福寺、南福寺、北福寺、大琳寺の五寺、そして自らが建立した正観寺を「五山の上」に位置づけました。正観寺には武光の墓があり、現在も菊池の人々を見守っています。


八女市

 八女市は、隈府と高良山や大宰府を繋ぐ位置にあり、幾度も戦場となったところです。また、懐良親王、そして懐良親王の跡を継承して後征西将軍宮として南朝方を指揮した良成親王が拠った地域と伝えられています。市内には、南朝方にまつわる歴史遺産が数多く残されています。

【大杣(おおそま)公園・大杣(おおそま)公園祭】

  • 八女1

 後征西将軍宮 良成親王墓。明治11年(1878)に現在の宮内庁が墓に認定し、代々、五條家の子孫が守部に任命され守られています。大杣公園祭は、良成親王命日の10月8日に執り行われ、約600年前から続く祭りです。この地で没した親王の御霊を慰め、公卿歌や浦安の舞が奉納されます。

【黒木の大藤】

 この藤は、後征西将軍良成親王のお手植えと伝えられ、幾多の戦と大火に見舞われながらも、樹齢600年以上を数える今でも力強く生き続けており、国の天然記念物にも指定されています。大藤のある素盞嗚(すさのお)神社には、約3,000平方メートルもの広大な藤棚が広がっており、毎年4月中旬ごろに開花し、1mを超える花房を垂下させます。開花期間中に開催される黒木大藤まつりには、全国から多くの人が訪れます。

【五條家・御旗祭り】

 五條家の始祖・頼元は後醍醐天皇の命で、南北朝の争乱に際し幼少の懐良親王に随行し、九州に下向しました。また、北朝勢力の打倒を謀るため、菊池一族とともに忠勤を尽くしました。
重要文化財五条家文書には、後醍醐天皇の綸旨などがあり、南朝方の動向を物語る重要な資料です。「八幡大菩薩旗(金烏の御旗)」は、後醍醐天皇が、皇子・懐良親王を征西将軍に任命した時、その「しるし」として、授けられたものです。それらの品々は、例年秋分の日に開催される「御旗祭」で一般公開されます。


久留米市

 久留米市には、菊池一族の盛衰に大きく関わった高良山をはじめ、多くの遺跡があります。

【高良大社・毘沙門岳城(御井町)】

 高良山は、筑紫平野と大宰府を一望する場所にあります。菊池武光と懐良親王は高良山を拠点として、大宰府の少弐氏と戦い、遂には九州を制覇しました。その後、今川了俊が大宰府を奪還すると、再び南朝方の拠点となり、了俊と筑後川を挟んで勢力争いが続いています。高良山の山頂には、懐良親王が滞陣したと伝わる毘沙門岳城跡があります。隣接する高良大社奥の院には、大保原合戦に出陣する親王が、勝利を祈願し飲んだとされる湧水があり、「勝ち水」と呼ばれています。

【龍護山千光寺(山本町)】

 日本に臨済禅を伝えた栄西が、1192年に創建したと伝えられる寺院です(現在は曹洞宗)。境内には、江戸時代に星野村大円寺から移された懐良親王の供養塔や廟、討死した貴族たちの墓など南朝関係の遺跡がある一方、西暦1377年を示す北朝の年号「永和三年」銘を持つ梵鐘もあります。6月には、境内は7,000株ものアジサイに彩られ、多くの人で賑わいます。

【宮ノ陣神社・遍万寺(宮ノ陣町)】
 宮ノ陣町は、懐良親王が陣を置かれたことを由来とした地名です。大保原合戦後、武光の弟武邦は兄の命により、懐良親王お手植えと伝わる「将軍梅」の傍らに庵を構え、戦死者を弔いました。庵は浄土真宗遍万寺となり、代々武邦のご子孫が住職を勤められています。隣には、良成親王・懐良親王を祭神とした宮ノ陣神社があります。社殿には八女市五条家の旗に描かれた八咫烏を模した神文彫刻があります。同町には、大保原合戦の戦死者を供養する五万騎塚もあります。

小郡市

 小郡市は、筑紫平野から福岡平野へ抜ける場所に位置し、古来多くの人々が行き交った交通の要衝です。古代から中世まで九州を統括していた大宰府にも近く、南北朝時代には、九州を二分する南朝方と北朝方が雌雄を決した大保原合戦(大原合戦)の舞台となりました。市内には今でも合戦に関する史跡が残っており、戦いのあった夏を中心に毎年多くの人が訪れます。

【福童の将軍藤】

 小郡1

 大保原合戦で深手を負った懐良親王が、大中臣神社に傷の回復を祈願したところ、その加護で全快したことに感謝し、藤の木を奉納したと伝えられています。被覆面積は約500平方メートルに及び昭和45年(1970)に県の天然記念物に指定されています。

【善風塚跡】

 大保原合戦では、両軍に多数の犠牲者が出たとされ、それら戦死者を葬ったとされる塚がいくつもありました。小郡市立大原小学校がある場所には3つの塚からなる大善風と、その北側100m余の所に4つの塚からなる小善風がありました。この7つの塚は、合戦で亡くなった両軍将士の墳墓であろうといわれていますが、現在はわずかに木立が残っているのみです。善風塚跡に近い三沢字寺小路には、戦死者の供養のために南北両軍が協力して建てた善風寺があったといわれています。

【大原古戦場碑】

 小郡市役所横の東町公園奥、小高く盛り土した上に南面して立つ、自然石の「大原古戦場碑」。正平14年・延文4年(1359)、現在の小郡・大保・山隈を中心に繰り広げられた大保原合戦の記念碑で、明治44年(1911)10月、三井郡内の学校職員・生徒により建立されました。公園内には、他にも合戦に関連する碑や案内板などがあります。


大刀洗町

 大刀洗町。その町名は南北朝時代の武将・菊池武光が合戦で血に染まった太刀を川で洗った故事に由来し、かつて東洋最大と謳われた陸軍大刀洗飛行場もその名を冠しています。また、町のランドマークとして荘厳な威容を誇る今村カトリック教会は、隠れキリシタンの信仰をその祖とするなど、歴史のロマンあふれる町です。
【筑後川の戦い】

 町名の故事を作った菊池武光は、南朝方の後醍醐天皇の命を受け、九州に下った懐良親王を奉じ筑後川の戦いに臨みます。これは南北朝の争いであると同時に、九州の覇権を巡る戦いでもありました。菊池軍4万、北朝方の少弐軍は6万の兵力を擁したと伝わり、まさに九州の合戦史上最大の戦いとなりました。激戦の末、辛くも勝利を収めた武光でしたが、自身と懐良親王も負傷し、両軍合わせて五千人以上が討ち死にするなど、その戦いは熾烈を極めました。この合戦は日本三大合戦のひとつにも数えられ、古人もそのありさまを「帰来、河水に笑って刀を洗えば、血は奔端にほとばしって、紅雪をふく」(頼山陽)「そのかみの、血糊の色とみるまでに、紅葉流るる大刀洗川」(乃木希典)と詠じています。

【菊池武光像】

  • 大刀洗

 大刀洗川のほとりに広がる大刀洗公園。その中央部に菊池武光の銅像が大刀洗川を見下ろすようにそびえ立っています。昭和12年に立てられたこの像は、全国的にも珍しい下馬した姿で、今まさに太刀を洗おうとしているかのようです。馬の胴体や台座の傷跡は、陸軍大刀洗飛行場を標的とした大刀洗空襲の際の機銃掃射や爆撃によるものと伝わります。自身が激戦を繰り広げたこの地が再び戦禍に巻き込まれる様を、武光はどのような思いで見つめていたのでしょうか。


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