天正の頃、耳納山麓にあった豪族星野氏の城下町が、 その滅亡と共に交通などに便利な平地の小部落だった現在の吉井に移り、 次第に各種産業も興って町の体裁を整えてきた。
江戸時代に入ると有馬藩21万石の城下町久留米と、 天領日田を結ぶ豊後街道の中央に位置するところから宿場町として栄え、また櫨の実からの木蝋生産、 酒造業等の発生により、吉井銀と称された特異な金融活動で資力を蓄えた商人の町でその繁栄を誇った。
しかしその間、明治の初期までに3回の大火に見舞われた人々は、 土蔵造りなど家構え、家造りに工夫を凝らして火災から家を守り、 また川や掘割りは当時の人々の生活には大切なもので、水に守られた町の人々は今日の緑と清流の景観を残し、 国道210号線、旧豊後街道筋に見事な町並みが現存し、訪れる人々に西の倉敷と呼ばれています。